望まない食事介助・胃ろうは虐待か?
ツイッターで気になるツイートがあったので、今日はそれを元に私の思いを綴っていきたいと思います。
ぐるんとびー菅原さんのツイートより
そのツイートの内容はこちらです。
デンマークでは、食べたくないという人に【食事介助】といって食事を【食べさせる行為】は虐待である。本人の希望のない胃瘻も同様に虐待になる。(そもそも胃瘻はほとんどない)
日本のあたりまえを疑うことも大切。
神奈川県で看護小規模多機能などを経営されている菅原健介さんのツイートです。
日本のあたりまえを疑う
おっしゃりたい内容は理解することができます。否定するつもりはありません。ですが、少し気になるところが私にはあります。
文末に、「日本のあたりまえを疑うことも大切」とあります。
その言い方ですと、「食べたくないという人に食事介助といって食事を食べさせる」「本人の希望のない胃ろう」が日本ではあたりまえ、というふうに受け取ることができます。私は、そのように受け取りました。
現実の日本の介護現場を想像してみる
「食べたくない」と言う人、言うことができる人に対して無理やり食事介助を行うでしょうか?
「食べたくない」と言う人の口に無理やり食事を突っ込むようなことをしているとしたら、明らかにそれは虐待だと思います。
だけど、「食べたくない」と言う人、言うことができる人が「食べたくない」と言ったら、少し時間を置いて提供したり、食事を中止したりしますよね。
「食べたくない」と言えない人への食事介助
問題なのは、自身で意思表示のできない方、「食べたくない」と自ら言うことのできない方への食事介助です。
私の職場には、「ぽかーんと口が開いていて、そこにペースト食をスプーンで入れたらしばらくしてゴクンと飲み込む」そんな利用者がいらっしゃいます。
本人から意思表示はまったくなく、見た目には口に入れたら機械的・反射的に飲み込んでいるだけのように見えます。
食べたいと思っているか、生きたいと思っているかを、私たちは知ることができません。
では、私たちはいったいどうすればいいのでしょうか?
ただ機械的にペースト食を口に流し入れるのが、私たちの食事介助なのでしょうか?
食事介助にどんな工夫を行っているか?
実際にどんなことを行っていますか?
- 食事介助をする前に体調の確認をする
- 飲み込みやすい姿勢を保持する
- 飲み込みやすい食事形態の工夫をする
- 一口ずつの見込みの状態を確認しながら介助する
- 食事の好みを把握する
- 好みの味を把握する
- 声掛けしながら食事内容の説明をしながら介助する
- 表情を確認しながら介助する
- 食事空間を気持ちよく整える(音楽・照明など)
などといったことを行いながら介助をしていますよね。
「食べたい」と望んでもらえる援助
私たちには、その方が食べたい・生きたいと願っているかどうかを知ることはできません。
食べたい・生きたいと願っていると信じるしかないのです。
私たちが信じることを止めた時は、その人は死ぬ時なのです。
私たちは上記のような工夫をしながら食事介助を行っています。
その人が「食べたい・生きたい」と願っているかは知れないけれど、「食べたい・生きたい」と望んでもらえるような援助の工夫をすることはできるはずです。
食べることや生きることの意味を私たちが勝手に決めてはならないと思います。
胃ろうにしても同じです。
胃ろうにしたら終わりではありません。
胃ろうにしても「生きたい」と望んでもらえるようにひたすら援助を行うのです。
私たちは、「食べたい・生きたい」と望んでもらえるようにひたすら考えるのです。
生きる意味を問う
最後に一冊の本を紹介します。
何年か前の介護福祉士の試験に出題された、V.E.フランクルの『夜と霧』(みすず書房)という本です。
その中の一節を紹介します。
生きる意味を問う
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するでななく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄(ろう)することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課する課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
介護福祉士試験からのメッセージ
介護福祉士の試験にV.E.フランクルの『夜と霧』が取り上げられる背景には、「介護福祉士はそれを強く意識しなさい」というメッセージが含まれていると私は思うのです。
生きることの意味を問うのではなく、その時々の要請を充たす義務を我々介護職は引き受けなければならないのです。
Pasco ロングライフ アソート
これは余談です。
施設の食事が進まない利用者さんに、食べたい時にパンでも食べてもらえないかと思って、1ヶ月くらい日持ちのするパンを買ってみました。
気に入って食べてくれるといいな。