はじめちゃんの介護

主に高齢者介護の話しや各種試験対策など

生と死に向き合うということ 介護現場が抱えるジレンマ 終末期 看取り

生と死に向き合うということ 介護現場が抱えるジレンマ

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老人ホームの位置づけ 終の棲家

 私たちが仕事をしている高齢者介護施設(入居系)には、人生の終末期にある方や、それに近い状態の方がたくさん入居しています。

 老人ホームなどは、位置づけとして「終の棲家」と一般に認識されていると思います。
 入居の契約時には必ず、お身体の状態が「重度化した場合」の対応や終末期の対応などについて説明させていただきます。

 私たちは仕事をしていく中で、利用者の死を避けて通ることはできません。

終末期に感じるジジレンマ

 終末期の利用者と向き合う中で、ジレンマを感じることも多々あります。

 終末期の利用者と向き合う中で私は、家族、医師、介護職、看護職、私(相談員)、それぞれの思いの中で、どういった対応をするのかを決める過程でジレンマを感じることがあります。

 私たちは、利用者の人生の中でほんの一部分しか利用者のことを見ていません。
 しかし終末期の今この時においては、最も長い時間利用者のことを見ています。

 家族よりも、医師よりも、今この時においては長い時間利用者のことを見ています。

終末期の対応と決定

 そうした状況の中で、いよいよ利用者のお休み(死期)が近いと思われる状態となった時、多くの場合医師と家族間で対応が決定されます。

 私たちは利用者に起こっている事実・現実を医師や家族に説明し、医師はどういった対応をするか家族に提案し、家族はそれに同意します。

 もちろんそれでいいのです。

 しかし、その決定は極めて短時間で行われます。

 例えば、「点滴を行う」という決定を行う場合、医師が診察し、家族に説明し、家族は点滴をすることでどうなるかということを十分に理解することなくそれに同意し施行されることがあります。

 もちろんそれでいいのです。

 医師は現状で「点滴を行えば回復の見込みがある」という診断をしたから点滴を行うのです。

 医師は患者を治すのが仕事です。だから回復の見込みがあればそれを提案するのは当然なのです。

回復の道を選ばないという決定

 しかし、例えば90歳過ぎの終末期を迎えている方に対して「あえて回復の道を選ばない」という選択もあるのではないでしょうか。

 医師はその決定を行うことはできないでしょう。
 その選択ができるのは、本人と家族だけです。

 本人は今、呼びかけにも反応がありません。その決断ができるのは家族だけです。

 家族は、自分の親の死に人生の中で2回しか向き合うことができません。
 自分の父と母の死でしか向き合うことができないのです。

 最初がどっちで、次がどっちしかないのです。

利用者を取り巻くチームの一員として

 私たちは、自分の親ではないけれど、人の親の死に多く立ち会っています。
 死のその瞬間だけではなく、終末期の過程に立ち会っています。

 そうした経験があるから経験をもとに意見したい、と言いたいわけではありません。

 医学的な事は私たちには判断できません。

 しかし、利用者をとりまくチームの一員として、終末期の対応を考える時に意見を求められない事には、ジレンマを感じずにはいられないのです。

 そうしたジレンマを何度も繰り返し経験しながら、私たちは利用者の生と死に向き合い続けて行くのです。

 あるいは、それに向き合い続けることこそが、私たちに求められていることなのかもしれません。

生きることの意味を問う

 さて、平成30年度の第31回介護福祉士国家試験では、次のような問題が出題されました。

「夜と霧」や「死と愛」の著作があるフランクル(Frankl,V)が提唱した価値の説明として、適切なものを1つ選びなさい。

1.公民権運動により差別を解消すること。

2.生命が制限される状況において、いかなる態度をとるかということ。

3.最低生活水準を保障すること。

4.ライフサイクル(life cycle)を通じたノーマルな発達的経験をすること。

5.アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃すること。

  答えは2ですが、解答と解説についてはここではふれません。

 こうした問題が出題される背景には、「介護福祉士はそうしたことを意識しなさよ」というメッセージが含まれていると思うのです。

 出題の中にある「夜と霧」の中に次の一節があります。

生きることの意味を問う

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。私たちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことを止め、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きることはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

夜と霧 新版』 ビクトール・E・フランクル 池田香代子訳 みすず書房

 これについて私の解釈を述べるよりも、この本はぜひ皆さんに読んでいただき、それぞれに考えていただきたいと思います。

 

 なんだかとりとめのない文章となってしまいました。

 (言い訳)事例を挙げながら書いたりすればわかりやすいのでしょうけれど、匿名のブログとはいえ、見る人が見れば誰が誰のことを言っているのかはわかってしまいますので、言葉や内容を選びながら、ぼんやりとした文章となってしまいました。

その他 終末期を考えるためにオススメの書籍

 こうした書籍はたくさん出版されていますけれど、私が実際に読んだ本の中から一部タイトルのみ紹介します。

「平穏死」のすすめ』 石飛幸三 講談社

 

「平穏死」10の条件』 長尾和宏 フックマン社

 

大往生したけりゃ医療とかかわるな』 中村仁一 幻冬舎