詐欺まがいの押し売りから気付く、認知症のある方の「拒否」という行動について
最近、三晩続けて通信の商品名(例えば〇〇ひかり等)を名乗る男が家を訪ねてきました。
おそらく、通信の商品名を語って何らかの通信の契約を取ろうとしているのだと思われます。
今日は、その体験から気付いた、「認知症のある方の行動」についてしたためてみようと思います。
詐欺まがいの男が三晩続けてやってきた
その男は、こんな感じでたずねてきました。
マンションのインターホンから、
ピンポーン「〇〇ひかりの田中(仮名)です。回線工事の説明に来ました。」
とのこと。
「回線工事の説明にきました」と言われても、こっちは頼んでいないし、マンションの管理会社からも何も聞いていません。
明らかにあやしいし、詐欺まがいの行為で何かの契約をさせようとしているにおいがプンプンします。
私は、「頼んでいません」と言いました。
田中は、「マンションで工事をするので説明なんです」と言いました。
私は、「管理会社から聞いていません」と答えました。
田中は、「このあたりの工事をするので説明なんです」と言いました。
話が変って来ています。
私は、「いらん、帰れ」と強い口調で追い返しました。
そんなやりとりが、三晩続きました。
私には欲しいという思いがあった
そんなやりとりがありましたが、実は私には、光回線を引きたい、契約したいという思いがあります。
私はインターネットを、auのSpeed Wi-Fiというサービスで利用しています。
このSpeed Wi-Fiというサービスには、3日10ギガというしばりがあって、3日の通信料が10ギガを超えると速度制限がかかってしまうのです。
YouTubeやamazonプライムビデオなどを観ていると、すぐに10ギガは超えてしまうので、光にしたいという思いがあるのです。光にしたいという思いがあったのです。
なぜ私は田中(仮名)を追い返したのか
なのになぜ私は、その男田中を三晩続けて追い返したのでしょうか?
結論を先に言うと、望んでいないからです。
光回線という商品を欲しいとは思うけど、その男の訪問を望んでいなかったからです。
もしかしたら、ちゃんとした商品の説明に来たのかもしれません。だけど明らかにあやしい田中という男の訪問を望んでいなかったからです。
光回線という商品を欲しいとは思うけど、あやしい男田中の訪問は望まないからです。
認知症のある方の「拒否」に置き換えて考えよう
この体験を、認知症のある方の行動に置き換えてみましょう。
認知症のある方の行動に「介護拒否」があります。
「拒否」という表現そのものが私は好きではありませんが、行動の説明のためにあえて「拒否」という表現を使います。
認知症のある方の介護拒否には、例えば、食事介助の拒否、トイレ介助の拒否、入浴介助の拒否などがあります。
私たちが介助を行う時、それらを拒否されることが多々あります。
はたして認知症のある方は、ほんとうに食事や排泄や入浴をしたくないのでしょうか?欲しくないのでしょうか?
私の「光回線は欲しいけどあやしい男の訪問は望まない」のと同じような心理が、そこにあるのではないのでしょうか?
認知症のある方の「欲求」について
私たちは、介護の勉強をする時、「マズローの欲求5段階説」を学びます。ご存知ない方はぐぐってみてください。
マズローの欲求5段階説の第1段階は、「食欲」「排泄欲」「睡眠欲」などの「生理的欲求」ですね。
だから人は、食事も排泄も欲しいはずです。欲求があるはずです。
なのに認知症のある方に食事や排泄を拒否されることがあります。
「欲求」と「欲望」
「欲求」とよく似た言葉に「欲望」という言葉があります。
文字の意味をそのまま捉えると、「欲求」が欲しいと求めるなら、「欲望」は欲しいと望むということです。
私の体験を例に考えてみましょう。
私は、光回線を欲しいと求めるけれど、あやしい男からそれを買うことは望まなかったのです。
認知症のある方の行動に置き換えて考えてみましょう。
例えば、介護職Bが認知症のあるAさんを入浴に誘ったら「拒否」されました。
Aさんは、本当に入浴したくなかったのでしょうか?
Aさんには、入浴したいという欲求があったのかもしれません。
だけど、介護職Bのそのタイミングでの誘いは望まなかったのかもしれません。
Aさんには、入浴したいという欲求があったのかもしれません。
だけど、介護職Bの入浴介助を望まなかったのかもしれません。介護職Cなら入浴を望んだのかもしれません。
Aさんには、入浴したいという欲求があったのかもしれません。
だけど、介護職Bのその時の態度を望まなかったのかもしれません。介護職Bの態度が、あやしげな態度だったのかもしれません。
主語を自分にして考えてみよう
私たち介護職は、「Aさんが入浴を「拒否」した」と言います。
だけどAさんには、入浴したいという欲求があったのかもしれません。その時やってきた介護職や介護職の態度やタイミングを望まなかっただけかもしれません。
「Aさんが入浴を「拒否」した」という言い方は、Aさんが主語になっています。
Aさんを主役にした言い方といえばそうですが、なにかAさんのせいにしてしまっているような気がします。
なにか他人ごとのような気がします。
他人ごととするのではなく、自分のこととして捉えてみたらどうでしょう。
主語を認知症のあるAさんとするのではなく、主語を介護職Bにしてみたらどうでしょう。
「Aさんが入浴を「拒否」した」のではなく、「介護職BがAさんを入浴に誘ったら「拒否」された」と捉えたらどうでしょう。
そうすれば、Aさんの拒否の背景が少しは見えてくるのではないでしょうか。
自己実現の欲求 人は何を欲しいと望むのか
マズローの欲求5段階説の第1段階は「生理的欲求」です。そして第5段階は「自己実現の欲求」です。
介護サービスを利用する方は、生理的欲求を満たすためにサービスを利用するのではありません。
介護サービスを受けることで自己実現をしたいのだと思います。
介護というモノやサービスが欲しいわけではありません。
欲しいのは、それを受けることで実現できる生活なのです。体験なのです。
私たちには、低次な「欲求」を支援するのではなく「欲望」を支援することが求められるのだと思います。
私は、光回線が欲しいのではありません。
光回線を使って実現できる体験が欲しいのです。
それを欲しいと望むのです。欲望するのです。
あやしい詐欺まがいの男からそれを買おうとは望まないのです。