「介護を誇れる仕事へ」は提供する側の分際で言うことではない
ツイッターで、ある介護事業所の経営者さんが「介護を誇れる仕事へ」というツイートをしているのを目にしました。
それを見て私は強い不快感を持ちました。
介護は誇ることができない仕事なのか?
「介護を誇れる仕事へ」という表現は、逆にいうと「介護は誇ることができない仕事」と表現しているようなものではないですか?
その経営者さんの心の中に、「介護は誇れない仕事」という思いがあるから、そういう表現が出てしまったのではないですか?
誇れる仕事とはどんな仕事のことなのか?
そもそも、「誇れる仕事」とはどういう仕事のことをいうのでしょうか?
人がうらやましがる仕事ですか?
給料がたくさんもらえる仕事ですか?
ノーベル賞を受賞できるような仕事ですか?
ちょっと私には、何が誇れる仕事なのかイメージできません。
誇れる仕事があるわけではない
そもそも、「誇れる仕事」なんてものは存在しないのではないでしょうか?
「誇れる仕事」があるわけではなく、仕事を誇りに思っている自分がいるか・いないか、ということではないでしょうか。
世界は誰かの仕事でできている
缶コーヒーの「ジョージア」のCMのコピーに、「世界は誰かの仕事でできている」というのがあります。
私は、そのコピーがとても好きです。
トイレ掃除は人が嫌がる仕事
例えば、トイレ掃除の仕事は人がうらやむ仕事ではないでしょう。人があこがれる仕事ではないでしょう。
だけど私たちは、トイレ掃除をしてくれている人々のおかげで、トイレを気持ちよく使うことができています。
トイレ掃除の仕事をしている人の中には、嫌々その仕事をしている人もいるかもしれません。
一方で、気持ちよくトイレを使ってもらおうと、トイレ掃除に誇りを持ってやっている人もいるかもしれません。
嫌々トイレ掃除をやっているにしても、誇りを持ってトイレ掃除をやっているにしても、結果的にトイレがキレイになって、使う人は気持ちよくなっているかもしれません。
逆に、嫌々やろうが、誇りを持ってやろうが、トイレがキレイになっていなくて使う人を不快にさせているかもしれません。
仕事をする方の分際が決めることではない
トイレ掃除は「誇れる仕事」とか「誇れない仕事」とか、仕事をする方の分際で決めることではないのです。
トイレを使う人が気持ちよく使えるかどうかが問題なのです。
缶コーヒーの「ジョージア」のコピー「世界は誰かの仕事でできている」のいうとおり、この世は誰かの仕事により成り立っています。
私たちがこうして普通に暮らすことができているのは、どこかの誰かの仕事のおかげなのです。
仕事をする方の分際で「誇れる仕事」とか「誇れない仕事」とか決めることではないのです。
わたしの仕事が誰かを幸せにも不幸にもする
あなたの仕事が、わたしの仕事が、どこかの誰かを幸せにも不幸にもするのです。
「介護を誇れる仕事へ」と言った人がどういう意味を持ってその言葉を言ったのかは知りません。
介護を仕事として行う方の分際で、「介護を誇れる仕事へ」なんて言うものではないと思うのです。
介護の目的は、利用者のQOLの向上です。
福祉の目的は、幸福の追求です。
あなたが、わたしがする介護の仕事で利用者を幸せにも、不幸にもするのです。
あなたが、わたしがする介護の仕事で利用者を幸せにすることができたなら、介護は誇れる仕事なのかも知れません。
それを決めるのは、私たち介護の仕事をする方の分際ではないのです。
私たちのサービスを受ける方が決めるのです。
※「分際」という言葉を使ったのは、そのくらい強めの言葉を使った方が刺さるかな?と思ったからです。
※「介護を誇れる仕事へ」という経営者さんのツイートは、2021年8月5日現在、「介護業界に「革命」を。」というふうに変えられています。